2020年PTNA F級課題曲
東京府生まれ。幼少の頃から音楽に親しみ、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)を経て旧制成城高等学校文科(現・成城大学)を半年で中退し、1931年にウィーンに留学、ピアノをベルタ・ヤンベール、音楽理論をリヒャルト・シュテールに学んだ。翌年一時帰国して武蔵野音楽学校で作曲科の教鞭を取り、その間作曲をクラウス・プリングスハイム、ピアノをレオ・シロタに学んだ。1934年に再びウィーンに渡り、作曲をヨーゼフ・マルクス、指揮をフェリックス・ワインガルトナーに学び、個人的にフランツ・モーザーに作曲、管弦楽法、指揮の教授を受けた。在欧中の1938年からはウィーン交響楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立つなど指揮者として活躍し、併せて自作の披露も行った。ウィーンではヴァイオリニストのヴォルフガング・シュナイダーハンと親交があった。
1940年に帰国後、1941年1月に新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を指揮し、日本デビューを飾る。
2020年PTNA F級課題曲
東京府生まれ。幼少の頃から音楽に親しみ、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)を経て旧制成城高等学校文科(現・成城大学)を半年で中退し、1931年にウィーンに留学、ピアノをベルタ・ヤンベール、音楽理論をリヒャルト・シュテールに学んだ。翌年一時帰国して武蔵野音楽学校で作曲科の教鞭を取り、その間作曲をクラウス・プリングスハイム、ピアノをレオ・シロタに学んだ。1934年に再びウィーンに渡り、作曲をヨーゼフ・マルクス、指揮をフェリックス・ワインガルトナーに学び、個人的にフランツ・モーザーに作曲、管弦楽法、指揮の教授を受けた。在欧中の1938年からはウィーン交響楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立つなど指揮者として活躍し、併せて自作の披露も行った。ウィーンではヴァイオリニストのヴォルフガング・シュナイダーハンと親交があった。
1940年に帰国後、1941年1月に新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を指揮し、日本デビューを飾る。